2000-03-07 第147回国会 衆議院 本会議 第8号
ある夜、当時の右派社会党の書記長淺沼稻次郎氏の来援があり、前島少年は、母君と一緒に、小わきにござを抱えて露天の会場に赴き、淺沼代議士の演説を聞いたということであります。当時、前島先生は十三歳、中学一年生という人生で最も多感な時期にあり、そのような時期に、あの音に聞こえた、演説百姓、人間機関車の生の声に接せられたことになります。
ある夜、当時の右派社会党の書記長淺沼稻次郎氏の来援があり、前島少年は、母君と一緒に、小わきにござを抱えて露天の会場に赴き、淺沼代議士の演説を聞いたということであります。当時、前島先生は十三歳、中学一年生という人生で最も多感な時期にあり、そのような時期に、あの音に聞こえた、演説百姓、人間機関車の生の声に接せられたことになります。
もう一つは、名前を挙げてオースチンの問題をお話しになりましたが、確かにこれはJVでございまして、御案内のように、新聞にも出ておりましたから、戸田と淺沼、オースチン、こういう格好になっております。
(拍手) 昭和二十年十一月二日、あの敗戦の瓦れきの中に日比谷公会堂で産声を上げました日本社会党の結党に参加して政治運動に身を投じて以来今日まで四十三年、その間、昭和三十五年秋に、淺沼稻次郎社会党委員長のかばねを乗り越えて初めて本院に議席を得ましてからも二十五年がたちました。思えば、はるばる遠くへ来たものだという感慨で今胸がいっぱいであります。
先生は、昭和二十九年、日ごろから私淑し、心の師と仰ぐ淺沼稻次郎先生の日本社会党に入党、昭和三十四年五月、三十四歳の若さで所沢市議会議員となられ、政治への第一歩を踏み出されました。さらに、昭和三十八年四月には、埼玉県議会議員に当選以来、連続四期、十六年の長きにわたって県政に参画され、郷里埼玉県の発展に大きく貢献されたのであります。
瞬間に私は淺沼稻次郎のあの山口少年を思い出したんですが、こういったような現状に対して警察庁としてはどういう態勢というんですかね、把握をして対処しておるのか、それが一つ。それから、実態はどうなっておるのか。それから三つ目に、資金源は一体どこにあるのか。それを警察庁としてどうとらえているのか。 この三つをちょっとお答えいただきたいと思うんです。
そして、この道を守るために淺沼委員長を失うほどの犠牲を払ってまいったのであります。それゆえに、社会党は身をもって平和を守る伝統を持った唯一の政党としての誇りを持っております。もし、大平内閣が依然としてこの危険な道を進もうとするなら、われわれは、新たな決意を持って断固として反対するであろうことを表明して、私の質問を終わります。(拍手) 〔内閣総理大臣大平正芳君登壇〕
私は、この条約の締結に当たって、わが党の故淺沼委員長を初め多くの先輩各位が、それぞれの立場を超えて長い年月にわたって尽力をされたことと、園田外務大臣を初め関係者が一字一句に至るまで並み並みならぬ配慮をされた御苦労に対しては深く敬意を表明するものであります。
今日までも、御承知のように右翼によって岸総理の刺傷事件、それから淺沼社会党委員長の刺殺事件、河上丈太郎社会党委員長の刺傷事件、ライシャワー駐日米大使の刺傷事件、これらも、いずれもこれは防止されずにそのままやられました。未然に防止できたのは池田首相の福島遊説のときだけだと言われております。
社会党の淺沼委員長の刺殺事件がございます。河上丈太郎社会党委員長の刺傷事件があります。ライシャワー駐日米大使刺傷事件があります。これはいずれも防止されずにそのまま既遂になっている。未然に防げたのは池田首相の福島遊説の際だとされている。共産党の宮本委員長も熊本空港で暗殺未遂事件の危険に瀕しられた。
かつて愛国党の事件というのは、古くは淺沼わが党の委員長刺殺事件あるいはミコヤン・ソ連副首相殺人予備事件だとかあるいはグロムイコ・ソ連外相の爆竹事件とか、皆この愛国党の一連の動きによって起こされておるし、しかもわが党の成田委員長の刺殺未遂事件等にも関連をしておったと思うのでありますが、それらのことを十分把握しながら、肝心な場所における、警備が手薄になることが想定されるような時期の警護、このことに手落ちがあったということはまことに
国民が今度の事件を見てはなはだ警察の警護の点で疑問を持ちますのは、犯人の筆保というのは、社会党の淺沼委員長の暗殺事件その他を起こした狂暴な前歴をもっておる大日本愛国党の書記長であって、本人自身も暴力行為などで検挙歴六十一回とかいう男でありますが、これをなぜ発見できなかったかという点であります。
かつて世界で一番遠い隣国であった中国の首都北京に四時間二十分で行けることになった本協定の承認に際し、戦後、日中友好親善関係の樹立を念願し、なみなみならぬ情熱を傾けてきた先輩各位、特に石橋湛山、松村謙三、高碕達之助、淺沼稻次郎の諸氏をはじめ、先達の高い識見とその御努力に対し、深甚なる謝意と敬意をささげたいと思います。
この法律は議員立法であり、わが党の淺沼元委員長が提案説明したものでございまするが、国民として、商社を証人として喚問し真相を究明すべしとの世論に対し、その抵抗をどうして試みたのでございましょうか。かかる国民感情を軽視し、無視し、大企業擁護の態度をとるその真意、そしてまた、この法律に対する考え方を明らかにしていただきたいと思います。
議員立法で、淺沼さんが提案理由の説明を二十二年の十二月七日にしておられます。ちょっと最初のところだけ読んでみます。 ○淺沼稻次郎君 ただいま議題となりました、 議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律案について、提案の理由を御説明いたします。
新憲法下第一回の衆議院は松岡駒吉議長、いまはない淺沼稲次郎氏が議運の委員長として、いまの国会法及び衆参両院規則で占領軍のメモとの折衝に当たったわけでありまして、私たちもその衝に当たったのでありますから、非常によく知っておるんです。知っておりますが、通年制ということがあったんですが、やっぱり二院制をとろう、しかも会期制をとろう。
戦後一貫して、多くの非難、攻撃を浴びながらも、日中国交回復運動を続けてきたわれわれは、今回の国交回復を心から喜ぶとともに、国交回復の過程で淺沼稻次郎氏、松村謙三氏、高碕達之助氏をはじめ野党の各位、自民党の良識ある人々、名もない多くの民間先駆者の方々が払われたその犠牲と努力に対し、心から敬意を表するものであります。
実は、前任のときに、富士学校へちょうど行く予定を立てておりますというと、淺沼さんの刺殺事件が起こりまして、にわかにとりやめるということになって、実はまだ一度も行っておりません。
当初の団長として訪中をした故淺沼稻次郎委員長は、この運動のためにとうとい犠牲となったのであります。この話し合いの過程の中で、国交回復後におけるアジアの安全保障につきましても、個別的な不可侵条約あるいは集団的な平和保障体制の可能性についても話し合われたのであります。われわれは、この重大な情勢の中で、ことしこそは日中国交回復の達成のために社会党が全力をあげる年である、こういう決意であります。
淺沼委員長を右翼のテロで失ったわが党として、このことを強く総理に警告をいたします。今後、このような事件の再発を防ぐ最善の道は、政府が憲法を守り、平和に徹する姿勢を明確に示すことであります。 国連創設二十五周年記念総会で、あなたは、日本は軍事大国の道へ進まないと演説をされましたが、日本国民に対し、世界の各国に対して、あなたの演説がうそでないことを、行動によって示す責任があります。
(拍手)統一後も、顧問の要職にあって、鈴木委員長、淺沼委員長を助け、名実ともに党の重鎮として、かけがえのない存在でありました。 昭和三十五年十月、淺沼委員長が凶刃に倒れるや、翌年三月、君は、党大会で満場一致、日本社会党中央執行委員長に選ばれました。自来、全党員の信望を一身に集め、四年余にわたって激職に当たり、党の団結強化と、大衆の生活向上とに全精魂を注がれたのであります。
次にお伺いをいたしますが、右翼団体の中には、すでに御存じのように河上、淺沼、岸、野坂、河野等々、政府要人に対して直接行動をする右翼が現に存在をいたしておるわけであります。その右翼団体に自由民主党の中で名前を連ねている方々がたくさんございます。この点について総理はどういうふうにお考えでありますか。
○横山委員 しかし、あなたの御答弁は、淺沼さんが殺されたときの直後における国会の答弁からはだいぶ後退をしておるようであります。あのときのあなたの答弁を引用すれば、この種の団体、それは包括的な意味でおっしゃっておるわけですが、政治家がいささかなりとも関係することは好ましくないというふうにきっぱり言われておるのであります。
○池田国務大臣 淺沼さんを刺殺したあの団体は、これはわれわれもよく知っておる団体でございます。それといまのお話の抽象的の団体とは、私は、私の知っておるその団体に対する知識の差がございますから、答え方も違ってくると思うのであります。淺沼さんのときのあの団体は、これはもう定評のある団体でございますから、あのときにそう答えたのであります。
浦野 幸男君 加藤鐐五郎君 倉石 忠雄君 佐伯 宗義君 田中 正巳君 渡海元三郎君 中野 四郎君 中山 マサ君 楢橋 渡君 西村 英一君 八田 貞義君 松浦周太郎君 松田 鐵藏君 松山千惠子君 森田重次郎君 米田 吉盛君 渡邊 良夫君 淺沼